筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)で辛い日々…でも社会復帰したい!

20年以上にわたり筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群と闘いながら考えたことを整理しています。時折ひとりごと…

ミスコン廃止と自分の意見を述べて受け入れてもらえる嬉しさ

アメリミシガン州にて)

コロナによって、仕事や学校がオンラインに切り替わっています。アメリミシガン州では元々オンラインのシステムが整っていたことも手伝い、あっという間に移行しました。

ミシガン大学だけではなく地域のコミュニティカレッジも同様です。もちろん授業内容や先生によってはオンラインに移行するのに苦労されたケースも多いようですが、法律や権限によってスムーズに移行しづらい日本と比べるとはるかに素早く移行しました。

 

クラスでしか得られない貴重な経験があるのは百も承知ですが、「通う」ことのハードルが高い身にとってはまたとないチャンスです。せっかくなのでオンラインでコミュニティカレッジの授業を取ることにしました。

 

英語がそこまで得意でない人間が英語力を伸ばすためにお勧めの授業を聞いて選んだのはコミュニケーションのクラス。人前でスピーチができるようになるクラスです。アメリカ人はみなスピーチができるという偏見を持っていましたがそんなことはなく、みなさん授業でスピーチについての知識を学び、クラスメイトの前でスピーチするための練習をして経験を積む、それを繰り返して始めて「スピーチ上手」になっているそうです。元から備わっているtalent ではなく、練習によって身につけるskill なんだという話が印象的でした。このコミュニケーションのクラスは数年前まで高等教育の必須科目だったとのこと。

 

ちなみにPersuasive Speech で私は日本の大学のミスコンを廃止すべきという主張をしました。日本でそんなこといったら「フェミニストだ」といわれたりしそうでとてもいえませんが、こちらの先生は「とても面白い」といってくれました。「女性らしい」「上品だ」ではなく「intelligent」「interesting」「work hard」を誉め言葉として授けてもらえるのがこの上なく嬉しいです。

 

以下、英語もまだまだですし客観的なデータなどが不足しているのは認識していますが、この嬉しかった気持ちを忘れないよう、スピーチの骨子をアップしておきます。

I think beauty contests held in Japanese top level universities should be abolished. I know many beauty pageant[pǽdʒənt] are held in the United States and I don’t want to say all of those should be abolished because these contests include various purposes, for example getting scholarship. Or, candidates are judged by not only appearance but also intelligence or education. And of course there are some contests to judge their outer beauty. Those are inevitable and stand to reason for girls or ladies who want to be actresses or such professionals.

But in Japan, we can see beauty contests in college and judging criteria are based on appearance.  Furthermore, a quiet lady who is not assertive tend to be selected as a winner because they are popular in Japanese culture. This phenomenon makes us women feel we have to be quiet, or it’s better not to say my opinion strongly and so on. We feel pressured in that way. In my understanding, a bigger problem is that this type of contests are held in the highest educational institutions like University of Tokyo. Female students basically don’t assert themselves even though they are smart and intelligent. Additionally, there are many club activities in University of Tokyo, which female students of University of Tokyo can’t join. Only female students of other universities can join and this is because female students of University of Tokyo are not recognized cute or quiet by male students think. Female students accept it without doubting because this is a common recognition.

Actually I was one of those students and when I was in college, I had to pretend to be quiet or I tried not to assert my opinion because doing so was not considered good for female students. But now, I have noticed it is wrong and I regret how I acted. I definitely hope this culture or atmosphere that just being beautiful and being quiet is enough for women will change in Japanese colleges.  I think beauty contests is one of factors which make this culture and atmosphere in college and so I think they should be abolished as soon as possible.  

 

*オンラインに移行してもパソコンやWifi などのネットワーク環境が整っていなくて受けることが叶わない学生も多いです。特にミシガン大学は貧富の差が激しくそれがコロナ感染率の地域差にも表れてしまっています。自分の置かれた環境に感謝します。

いつまで続くか分からない不安、コロナよりも・・・

コロナウィルスが猛威を振るっています。

ミシガン大学医学部附属病院で週に2回受けていた鍼治療も、3月半ばから受けることできていません。アメリカへ来てから以前より体調が良くなったのは鍼のおかげが大きいと感じていましたし、実際に徐々に倦怠感がひどく、辛くなってきていて不安です。

 

「病院行くのがキャンセルになった」ということを伝えるとほとんどの方が「病院行くの(感染リスクが)不安だもんね」といって下さいますが、実はそれに対してずっと違和感のようなものを感じていました。ネガティブなものというよりは「ぴんと来ない」感じです。

その正体は、「コロナに感染するかもしれない不安」よりも、「(受診できないことで)また以前のようにしんどくて何もできない状態になることへの不安」の方が大きいのだということに気づきました。もちろんコロナに感染するのは冷静に考えると不安なのですが、それ以上に、「ああ、またあの、原因も分からず治療法もないとてつもなくしんどい毎日に逆戻りなのか」という不安、恐怖、悲しみの方が大きくて、「コロナに感染するリスクがあっても受診したい」と思ってしまっていたのです。筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群と違いコロナは移るので自分勝手なのでしょうけれど…

 

また、インタビューや友人のメールの中に「いつまで続くか分からないから不安」というコメントもよく見ます。正直これもピンと来ていませんでした。残念ながら家から出られない状態に慣れており、20年以上の闘病生活中には週に数回外出できる時期もあったものの全く出られない毎日が5年ほど続いた時期もありましたので、「たった数週間」「たかが数ヶ月」という感覚があるのだと思います(決してみなさんに押し付けようというのではなく私にとって、という意味です)。

更には、「終わりが見えない」状況は病気も同じで、むしろ病気の方がコロナより一層終わりが見えないと(無意識に)感じているんだなという悲しい事実に気づいてしまいました。コロナの収束の方が病気の治癒より先に訪れる、つまりコロナが終わっても病気はまだまだ続くということが私にとっては「当たり前」なんですよね・・・なんだか悲しい人生だなと思ったら泣けてきました・・・

*これは友人がコロナについて「終わりが見えないって怖いね。〇〇ちゃん(私)はずーっと闘病生活してるでしょ?その辛さがちょっっっとだけ分かった気がするよ」というメールをくれたことで顕在化しました。私の状況自体は悲しいものですが、こんなことをいってくれる友人がいてくれることをありがたくも思いました。

 

更に更に、今世の中の人が抱えているストレスのうち大きなものとして「行きたいところに行く」「会いたい人に会う」ことができないストレスがあると思うのですが、その「〇〇できない」ストレス、私はもう20年以上当たり前に抱いてきた思いなんだよね…と実感することも悲しみを誘います。本当に悲しい。。。何のために生まれてきたのかなあ。。。とすぐに考えてしまいます。。。このところ調子が悪いせいか思考回路もネガティブです。ネガティブな自分をだめだだめだと思わないように気をつけつつ(ネガティブな自分を受け入れる方向を目指しています)、なるべく顔を上げて頑張っていきたいと思います。

郵便番号(Zip Code)毎の感染者数

アメリミシガン州にて)

私の居住地はMichigan State(州)Ann Arbor City(市)ですが、State とCity の間にCounty という行政区があります。日本語訳上は「郡」となっていることが多いのですが、我々の感覚としては「県」に近い感じです。Ann Arbor City はWashtenaw County に属し、東はWayne County、北東はOakland County と隣接しています。州同様、直線で人工的に区切られた行政区です。

 

ミシガン州でもコロナウィルスは猛威を振るっており、現地時間3月31日時点で7615人の感染者が確認されていますが、そのうち約半数の3735人がWayne County(うち2080人がデトロイト市)、1591人がOakland County に居住しています。

https://emhsd.maps.arcgis.com/apps/opsdashboard/index.html#/ea9fb6d9caaa4937995113dbd5d0a87a

このOakland County ではなんと、更にそのエリア内の郵便番号(Zip Code)毎の感染者数がネットで見られるようになっています。

https://www.oakgov.com/covid/casesByZip.html

これ、すごくないですか・・・?あくまでも「感染者の居住地による分類であり感染した場所ではない」ことに留意する必要はありますが、日本だったら「偏見につながる」ということでとてもじゃないけれど実現しなそうな情報です。賛否両論あるとは思いますが、「透明性(transparency)の確保が最優先」と話すOakland County の行政長のブレない意識と権限の強さに驚かされました。

外に出られない苦痛

アメリミシガン州にて)

コロナウィルスの影響で、なるべく自宅から出ないように言われています。

ミシガン州は学校もレストランもカフェも閉鎖していますし、病院の予約も可能なものは変更するよういわれ回数が減っています。

 

知り合いなど(ESLチューターなど)と話してみると、「出かけるところがなくて暇」という人と「意外と楽しめている」という人に分かれます。「意外と楽しめている」という人は、家の周りの散歩や友人との集まり(パーティなどではなく2,3人でお互いの家に行く程度)はできているからだそうです。私は体調的に散歩も友人付き合いもないので、全く家から出ません。ただ、全く家から出ないことには残念ながら慣れているのです。

 

「暇だ」という人も「それなりに楽しめている」という人も共通して、「なんとかなっているのはまだ1週間だから。2,3ヶ月続いたら気が狂いそう」といいます。そしてそれにとても傷つくのです。私はもう何年もその状態・・・トータルでは20年以上になります。その中でもわりと外に出られたり「普通の」生活っぽいことをできた時期もありましたが、全く外に出られずベッドに横になりっぱなしの毎日が5年続いたこともあります。アメリカに来てから幸い体調が好転し、週に数回外の空気を吸えるようになりました。それが奇跡だと感じるほど、私の人生は「思うように動けない」ものでした。

なのでこの話題になると悲しくなります。しかも子供もいなくて仕事もしていないので、きっと暇だろうと思われてるんだろうな・・・とも思います。

みなさんそんなつもりがないのは分かっています。ただ、ただ、悲しくなってしまうのです。。

お州柄?!

アメリミシガン州にて)

前回、ミシガン州全域で州知事令によりバーおよびレストランなどの飲食店や各種娯楽施設が閉鎖となったと書きました。「閉鎖となった」というのは外務省から日本語で送られてくる案内そのままの表現なのですが、これだと「要請」なのか「義務」なのか分かりません。そう思って英語の公式発表を読みました。以下のようでした。

Today, Governor Gretchen Whitmer signed Executive Order 2020-9, which temporarily closes theaters, bars, and casinos, and limits restaurants to carry-out and delivery orders.

つまり原文でも「閉鎖します」という表現なのですね。

現地の知り合いに聞いたところ、mandatory (義務)ではないそうです。実際にはほとんどのお店が閉鎖していますが。

 

そして本日(3月18日)、フロリダ州の措置が発表されたのですがその内容はもっと緩いもの。。。

・バー、パブ、ナイトクラブ・・・17時以降30日間にわたってアルコール飲料の販売を停止する(お店は営業するのね!!)

・ビーチ・・・10人以上の集まりを制限し、他人との距離を6フィート(約2メートル)以上確保するとの米国疾病予防管理センター(CDC)の指針に即して、公共のビーチを利用するよう指示する(ビーチで集って遊んでいいのね!!)

・レストラン・・・入店する客の数を現行の収容人数の50%に制限する。客の間の距離を6フィート(約2メートル)以上確保し、客は10人以内のグループに制限する(10人以内なら盛り上がっていいのね!!)

これって意味あるのかしら。。。しかもフロリダ州ミシガン州以上の感染者数(本日時点で299名)なのに。。。「感染者数が多いのにこの程度の対策!?」なのか「この程度の対策だから感染者数が増えている!?」なのか。。。

 

ミシガン州の措置を聞いて、「集団行動やお国にルールを決められるのが大嫌い=個人の独立と自由を何よりも愛するアメリカなのに意外だわ」と思ったのですが、州によりかなり差があるようです。法律的に州ごとの独立が強いのは理解していましたが、国民性ならぬ州民性?にもかなり隔たりがあるのでしょうね。面白い発見でした。

 

アメリカ人の知り合いの中には、「州ごとの文化差というより州知事の判断次第」と話す人もいました。

フロリダ州のビーチに若者が多数集まっている画像がインターネットで出回り、トランプ大統領まで苦言を呈する事態に。3月23日時点でフロリダ州もレストランなどの全面閉鎖に切り替わりました。

危機管理と衛生リスクについての考え方

アメリミシガン州にて)

アメリカではコロナの前からインフルエンザが流行っていましたが、いまだに1人もマスク姿を見かけません。少なくともアナーバー市内では。


元々マスク文化がない上、アメリカ当局が「マスクは感染予防に意味なし」と明言していることもあり予防でマスクはしないようです。
それどころか風邪やインフルエンザになっても一切マスクはしていません。「予防だけでなく、自分が感染していたら人に移さないために意味がある」という発想もあまりないようで・・・「咳やくしゃみをする時は腕で口を覆いましょう」てなメールが回ってきたりします。それで腕に菌がついたらどうなるの~・・・

 

インフルエンザでは基本病院に行かない(保険に入ってる人でも)ものらしいですし(よってそのまま会社や学校に行ったりする…)、基本的におおざっぱというかタフなんでしょう・・・そもそも家の中で土足で生活する文化で、菌への耐性が強そう・・・(女性の膣内の保有菌の数には、日米女性で100倍ほど差があると話している婦人科の先生に会ったこともあります。)

 

マスクしてると保菌者または「やましい」人と思われて非常に過ごしづらくマスクができないのが、免疫力の低い私としては悩みの種です。

 

ただ、普段はだらだら、もとい、のんびりしているアメリカですが動く時は早いようで、ミシガン州では10日夜に初めてコロナ感染者が2人出た翌日、非常事態宣言が発出されました。ミシガン大学等ほとんどの学校の休校も即時に決定されました。

動く時は動く!という感じですね。

*更に本日(アメリカ時間3月16日)、州知事令により、16日午後3時より全ての飲食店及び各種娯楽施設が31日午後11時59分まで閉鎖となりました。歯科医院からはおそらく病院長の判断による予約キャンセルの連絡が来ました。発表時点でのミシガン州感染症例数は53件。日本では「過剰自粛」の声も聞きますし、「人それぞれ」がベースのアメリカで「一斉閉鎖」はなじまない気もしますが、一方でこの強行さがアメリカらしいようにも感じます。

 

また、私はAmazonUber Eats をしばしば利用していますが、「『安全のために』玄関先に荷物を放置する」のがルールとなっているようです。コロナが広がっている現在、「人との接触を避ける」意味で「安全」ということなのでしょうが、配達物を玄関先の床の上に放置されるのはコロナ以前からの風習。生活雑貨の置き配には随分慣れてきましたが、食事を玄関先の地面に置いておかれるのは、コロナとはまた別の意味での衛生面が不安になってしまいます・・・私がザ・日本人だからなのでしょうか・・・(;'∀')

Racism

アメリミシガン州にて)

渡米前、「アメリカでは宗教、人種、政治の話は避けるように」とアドバイスされました。ところが実際は、現地のアメリカ人が自らそれらの話をするケースが非常に多いです。今年が大統領選の年ということもあるのでしょうが、嬉々として政治について語ります。また人種についても、特に黒人の方が自ら語り始めることがとても多いように感じます。

 

私の住んでいるミシガン州全体は白人の人の割合が多く、ラストベルトと呼ばれる「工業衰退地域」と呼ばれます。大統領選において共和党民主党の票が拮抗する州です。

その中においてアナーバーはいい意味でも「異質」であり、かなり多国籍の人が集っています。市の8割がミシガン大学関係者といわれるようにミシガン大学の存在が大きいのでしょう。実は「アメリカ人が住みたい街」全米No.1に選ばれたこともある街です。

 

そういった「アナーバーの異質性」に起因する事象である可能性はあるものの、「人種や政治の話を積極的、かつ平和的にする」人の多さに驚きました。

 

「平和的」といってももちろん差別や政治に憤慨している人も多く、例えばコミュニティカレッジの黒人の先生は、「白人は、『アジア人とアフリカ人はアナーバーの北に住め、アナーバー南は白人の街だ』といいやがる」と憤っていました。「Racism だ!」と。いわゆる授業で面と向かってracism の話をすることに驚きました。「暗黙の差別」よりは声に出せるようになった分、歴史的には少しでも進んでいるということかもしれません。

 

またLyft の黒人の運転手さんは、「日本人は黒人というだけで怖がる。でもそれは会ったことがないから。実際に人と人として対面して、話をすればその偏見は小さくなる。『本人の経験が大事』」といっていました。心から同意するとともに、おそらく今までいくつもの偏見に苦しむ経験をされてきたであろうことを想像すると、その懐の深さに感謝、尊敬の念を抱かずにはいられません。

 

なお、白人の人のことはWhite、黒人の人のことはBlack と呼んでいい、呼ぶのがいい、そうです。その他の人種はAsian や Hispanic、Latin など。黒人の人たちはBlack よりもっとひどい差別用語で歴史的に呼ばれてきており、それらと比較するとBlack は差別のニュアンスがないニュートラルな表現だそうです。一方、日本人を含むアジア人を色で呼ぶのは差別用語として使用されてきたので今ではNGとのこと。その結果、一部の人種は色で呼んでOK、一部はNGという状態になったようです。

人種が差別の源になった悲しい歴史があるために適切な英語は何なのか迷っていましたが、思い切って聞いてみて良かったです。これはコミュニティカレッジの先生に聞いた話でしたが、彼女に「基本的にはこんな感じだけれど、最終的には人によるので、本人にどう呼ばれたいかを聞くのが一番」といわれたのも印象的でした。こういったことを尋ねること自体が失礼なのではと尻込みしていたのですが、それよりも思い切って聞いて相手の嫌な表現を避けることこそが相手を思いやるコミュニケーションなんだなと勉強になりました。

年齢に縛られない

アメリミシガン州にて)

何度か言及していますが、アメリカでは「年齢に縛られない」ことを実感するタイミングが多々あります。

 

Washtenaw Community College(日本でいう短大に近いですが、1科目だけ受講できたり、4年制の大学への編入の道が開けたりする大学です)では50代60代の生徒さんも多数見かけます。

LyftUber同様、一般の人によるタクシーサービス)の運転手さんで、「自分は今55歳で、Lyftでお金を貯めてCommunity College でウェブアドミニストレーションの勉強をするんだ!」といっている人とも出会いました。

 

こちらに来てから「もう歳だから」というフレーズは聞いたことがありません。そもそもそのような感覚がないのだと思います。

 

大統領選に向けた民主党の候補者選びでも、有力者として残っている2人(Joe Biden 氏とBernie Sanders 氏)はどちらも70代後半。大統領に選ばれた暁には在任中に80歳を越すことになります。その賛否は置いておいて、その年代の人が立候補することを受け入れ、支持、応援するアメリカ社会の「年齢を重ねることへの寛容さ」に驚かずにはいられません。

寛容さという意味では同性愛者を公言しているPete Buttigieg 氏が候補者であったという事実も、アメリカの先進性、寛容さを表していると思います。彼は選挙戦から撤退しましたし、その理由を「アメリカでもまだ同性愛者を受け入れない人たちが一定数いるから」と説明している専門家もいますが、大統領候補者として堂々と戦うステージまで登場しているという事実そのものが、日本より随分進んでいるなと感じます。日本はようやくLGBTへの取り組みが始まったところですから。

専業主婦であるということ

アメリミシガン州にて)

アメリカでは「結婚したから仕事を辞める」「子供ができたらから仕事を辞める」という考えがあまりないようです。私がいる街では「日本から夫の駐在について来た専業主婦」が多く、みなさんその存在を知って下さっています。ただそれでも必ずといっていいほど、「あなたの仕事は?」と聞かれます。

以前「independent でいること」で書いたことと関連しますが、私はこの質問を受けるのがとても苦手です。なぜならば病気でなかなか働けず、堂々と話せる仕事がないから。それでも「専業主婦で何もしていません」というのにも抵抗があり(そもそも仕事をしたかったし、家のこともちゃんとしているわけではないし子供もいないし…)、「今は働けていないけれど、以前は監査の仕事していて、近いうちに働きたいのだ!」と答えるようにしています。そうするとみなさんすごく温かく、前向きに、「いいね!」といって下さるんですよね…日本で「ずっと働けてないのに、いい歳して何をいってるんだ」という雰囲気が皆無なのです。「何歳からでもキャリアは始められるし、きっとできるよ!頑張れ!」と応援して下さいます。それにいつも勇気をもらいます。

 

一方で、アメリカでは女性も外で働くのが「一般的」ですが、だからといってこちらの人が「専業主婦なんて仕事じゃない」と思っているわけではないと思います。以前話した女性は、「日本から来た女性に仕事を尋ねると多くの人が『I am just a houselife.』という。それが好きじゃない」といっていました。彼女曰く「just」が気に入らないんだそうです。just というのは、専業主婦の仕事がとるに足らないものと思っていることを伝えるから、とのこと。その女性は、私が「夫の仕事の都合でアメリカに来たけど私はそのストーリーが本当は好きではないです。なぜならば私自身自分の力で海外に住みたかったので」と伝えたことをほめて下さった方で感謝しているのですが、ただ、日本の専業主婦がjust といってしまうのも分かります。彼女がjust を嫌う背景には、「自分で選んだことなら堂々とせい!」というのがあるかと思うのですが、そこにはアメリカならではの”Up to you 文化””自分で選んで自分で責任を持つ文化”があると思うんですよね。日本では結婚や出産で女性側が辞めたり時短せざるをえない文化がまだまだありますし、そこで辞めなくても夫が海外駐在になったら辞めてついて行く女性が多いです。「本当は働き続けたかったけど辞めざるを得なかった」というケースが多いのです。更に最近は「専業主婦であること」に負い目を感じざるを得ない空気もあります。そういった背景があってjust という単語を挟んでしまう気分になっているのではないかと。

 

「仕事をバリバリしたいから続けます!」「家事が好きだし外の仕事は嫌いなので専業主婦です!」と、みなが堂々と生きられたらいいのになと思います。

 

嫌われたくない

人が「本当はどう思っているか」というのはとても大事ですが、人付き合いにおいては「相手からどう見えるか」がより大事だと感じます。

「話聞いてない!」「聞いてるよ!」というやりとりが頻発しますが、結局相手に「自分の話を聞いてくれていないな」と思わせる態度をとってしまっていること自体が問題なんだと思うのです。目線がそれているのかもしれないですし、スマホを気にするそぶりが見えすぎているのかもしれないですし、相槌のタイミングが変(話をちゃんと聞いていたら頷かないであろうところで「うん、うん」といっている)なのかもしれません。

 

心の底で「本当はどう思っているか」よりも、結局外に出る言葉遣いや態度がモノをいう、というのが私の持論です。人から見えるのはそこですから。

もちろん家族や付き合いの長い友人には「あの人は見かけは冷たいけど実際は心温かい人なのだ」などと思ってもらえることもあるとは思いますが、それは限られた人だと思うのです。仕事仲間や一般的な友人付き合いにおいては、「表面的に見えてくる『人となり』」のウェイトが大きいのではないでしょうか。

 

私は人と接する時、かなり気を遣います。相手の顔色を見て、どんな性格なのか、何をすると気分を害するのか、その日はどんな気分なのか、私が話そうとしているテーマは好きそうか嫌いそうか、どういう結論を望んでいるか、などなど。

接している時は、とにかく相手の話を遮らないことに注力します。相手の話を注意深く聞くことでその人の考えや性格を慮ろうとしている側面もありますが、単に「話を遮られた」との印象を持たれたくないのです。

また、一度聞いたその人に関する話はメモをして、次回会う際には事前に読み直します。この習慣は、一度聞いた話をまた聞くのは失礼だからその人に嫌われてしまうことを恐れて始めました。そんな習慣を持つことが相手に知られたらひかれてしまうと考えひた隠しにしてきたのですが、どうやら世の中的には「自分の話したことを覚えていてくれる人」と認知して頂けるようで、悪いことではないみたいです。

 

基本的に私の人付き合いは、「嫌われたくない」というのがベースになっています。転校やいじめを経験した結果でしょうか。「嫌われる勇気」がはやりましたが、その前からずっと、私自身は「嫌われたくない自分」を嫌悪していました。嫌われても好きなことをやる人に憧れ、それができない自分を責め、嫌悪し、否定し・・・

 

しかし最近になって、そんな自分を受け入れていけたらいいなという感覚がようやく生まれてきました。「嫌われたくない」のが動機でもいいじゃないか、と。

昔と違うのは、例えば相手の意見がどうも自分とは違いそうだと察した時、以前は自分の意見を変え、相手の意向に沿った意見を表明したのです。それに対し最近は、自分の意見は意見としてなるべく変えないまま、どうしたら傷つけずに伝えられるか、どうしたら受け入れてもらえるか、を考えるようになりました。まずは相手の話を集中して聞き、相手の意見や感覚を理解し、その上で分析するのです。例えば「この部分が気に入らないようだからそこは修正して他の部分は伝えられるかも」とか、「論理より情が大切そうだから話し方を考えよう」とか。これって「せこい」のかなぁ・・・と今でも悩みます。でもどうしても、パーソナルでもビジネスでも、嫌われたくないのです・・・