筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)で辛い日々…でも社会復帰したい!

20年以上にわたり筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群と闘いながら考えたことを整理しています。時折ひとりごと…

嫌われたくない

人が「本当はどう思っているか」というのはとても大事ですが、人付き合いにおいては「相手からどう見えるか」がより大事だと感じます。

「話聞いてない!」「聞いてるよ!」というやりとりが頻発しますが、結局相手に「自分の話を聞いてくれていないな」と思わせる態度をとってしまっていること自体が問題なんだと思うのです。目線がそれているのかもしれないですし、スマホを気にするそぶりが見えすぎているのかもしれないですし、相槌のタイミングが変(話をちゃんと聞いていたら頷かないであろうところで「うん、うん」といっている)なのかもしれません。

 

心の底で「本当はどう思っているか」よりも、結局外に出る言葉遣いや態度がモノをいう、というのが私の持論です。人から見えるのはそこですから。

もちろん家族や付き合いの長い友人には「あの人は見かけは冷たいけど実際は心温かい人なのだ」などと思ってもらえることもあるとは思いますが、それは限られた人だと思うのです。仕事仲間や一般的な友人付き合いにおいては、「表面的に見えてくる『人となり』」のウェイトが大きいのではないでしょうか。

 

私は人と接する時、かなり気を遣います。相手の顔色を見て、どんな性格なのか、何をすると気分を害するのか、その日はどんな気分なのか、私が話そうとしているテーマは好きそうか嫌いそうか、どういう結論を望んでいるか、などなど。

接している時は、とにかく相手の話を遮らないことに注力します。相手の話を注意深く聞くことでその人の考えや性格を慮ろうとしている側面もありますが、単に「話を遮られた」との印象を持たれたくないのです。

また、一度聞いたその人に関する話はメモをして、次回会う際には事前に読み直します。この習慣は、一度聞いた話をまた聞くのは失礼だからその人に嫌われてしまうことを恐れて始めました。そんな習慣を持つことが相手に知られたらひかれてしまうと考えひた隠しにしてきたのですが、どうやら世の中的には「自分の話したことを覚えていてくれる人」と認知して頂けるようで、悪いことではないみたいです。

 

基本的に私の人付き合いは、「嫌われたくない」というのがベースになっています。転校やいじめを経験した結果でしょうか。「嫌われる勇気」がはやりましたが、その前からずっと、私自身は「嫌われたくない自分」を嫌悪していました。嫌われても好きなことをやる人に憧れ、それができない自分を責め、嫌悪し、否定し・・・

 

しかし最近になって、そんな自分を受け入れていけたらいいなという感覚がようやく生まれてきました。「嫌われたくない」のが動機でもいいじゃないか、と。

昔と違うのは、例えば相手の意見がどうも自分とは違いそうだと察した時、以前は自分の意見を変え、相手の意向に沿った意見を表明したのです。それに対し最近は、自分の意見は意見としてなるべく変えないまま、どうしたら傷つけずに伝えられるか、どうしたら受け入れてもらえるか、を考えるようになりました。まずは相手の話を集中して聞き、相手の意見や感覚を理解し、その上で分析するのです。例えば「この部分が気に入らないようだからそこは修正して他の部分は伝えられるかも」とか、「論理より情が大切そうだから話し方を考えよう」とか。これって「せこい」のかなぁ・・・と今でも悩みます。でもどうしても、パーソナルでもビジネスでも、嫌われたくないのです・・・