筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)で辛い日々…でも社会復帰したい!

20年以上にわたり筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群と闘いながら考えたことを整理しています。時折ひとりごと…

同じであることを重んじるか、違うことを重んじるか

アメリミシガン州にて)

以前より、アメリカでは車いすへの視線が心地良いと書いています。日本でのようにジロリと見られることがなく、でも必要な時は手助けしてもらえます。いい意味で特別視されていない感じです。そのことをネイティブの人と話したところ、アメリカでは小学校から、場所によっては幼稚園から、障害のある子供もなるべく多くの時間を特別学級ではなく普通学級で過ごすのがスタンダードだからではないかと話してくれました。生徒によっては別途サポートを受けたり特定の授業に参加できない場合もあることはあるけれど、限りなく可能な限り同じクラスで同じ授業を受けるとのこと。だから子供の頃から障害を持った人が身近に常にいる状態で育つそうです。その結果、別に障害のある人は「特別ではない」。勉強ができる子できない子、スポーツが得意な子、よく話す子、おとなしい子・・・色々な個性がある一つとしてたとえば「車いすに乗っている子」というのがあるに過ぎないと感じるようになるそうです。

 

これは大きそうですね。「人はそれぞれ別の存在」「考えは十人十色」というのが文化の根底にあるアメリカ。その一方で「似ていること」「同じであること」に重きを置く日本。日本では、「普通」と違うこと、「大多数」と違うことに対する目線が厳しいんだなと感じます。

 

それは強みでもあって、例えばコロナパンデミックへの対応として自宅待機や自粛が命令ではなくお願いに過ぎなかったのに爆発的感染が抑えられたことなどは、「みんなルールを守ってるんだから自分たちも守ろう」という意識の成果だと思います。ただ一方で、感染者への厳しい目線も生んでいますよね。たしかに繁華街に遊びに行って感染した場合に冷たい視線にさらされるのは百歩譲って理解できます。でもなぜ、医療従事者への差別が起きるのか、理解できません。

アメリカでは、医療従事者はヒーローです。日本では医療従事者への差別が問題になっていると説明しても、ほとんどのアメリカ人は理解できないです。そりゃそうでしょう、自らの身を挺して危険な仕事についてくれている人たちをどうして差別するのか、理解に苦しみます。そこには、日本独特の感染者への厳しい目線や、「自分たちと違う人(=感染した人たち、あるいは感染するリスクの高い環境にいる人たち)」という意識が根底にあるのではないかと考えます。少しだけでも想像力を働かせたら、自分だっていつ感染するか分からない、つまり「自分たちと似てる人」「自分たちと違う人」というカテゴライズには意味がないことが分かるのに・・・ただそれも、感染者が100人から200人でそのほとんどの感染ルートが分かっている現状は、「同じ」ことを重視する日本文化に勝るインパクトはないのかもしれませんね。1日5万人が感染しているアメリカではいつどこで誰がかかってもおかしくないので、感染した人への差別意識なんて生まれる余地がありませんから・・・