筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)で辛い日々…でも社会復帰したい!

20年以上にわたり筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群と闘いながら考えたことを整理しています。時折ひとりごと…

too submissive

この場でしばしば、私にとっての日本の生きづらさ、アメリカでの生きやすさについて書いていますが、その意味で大変興味深い記事を見つけました。そうか、この「生きづらさ」は「too submissive」という英語で表現されるのね、と勉強にもなりました。

 

以下、中川まろみさんによる現代ビジネスへの記事をそのまま引用させて頂きます。

 

第92回アカデミー賞の「メイクアップ・ヘアスタイリング賞」を2019年公開の映画『スキャンダル(原題:Bombshell)』で特殊メイクを担当したカズ・ヒロさんが受賞した。2年前に続いて、2度目の受賞となる。

 カズ・ヒロさんは昨年に米国の市民権を取得し、現在は日本国籍ではなくアメリカ国籍なのだが、今回の授賞にあたり日本の記者から「日本での経験が受賞に生きたか」と問われ、こう答えた。

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"Sorry to say but I left Japan, and I became American because I got tired of this culture, too submissive, and so hard to make a dream come true. So that's why I'm living here. Sorry".
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 これを日本のメディアの多くは、以下のような日本語訳で紹介した。

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「こう言うのは申し訳ないのだが、私は日本を去って、米国人になった。(日本の)文化が嫌になってしまい、夢をかなえるのが難しいからだ。それで(今は)ここに住んでいる。ごめんなさい」(朝日新聞デジタルの記事より)
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 英語と日本語は言語構造が大きく異なるため、英語におけるニュアンスをそのまま日本語で表現することは難しいが、この日本語訳は「too submissive」という決定的に重要なフレーズを飛ばしており、元の言葉と明らかに異なる意味合いになってしまっている。

 なぜこのような訳になってしまったのか真意は分からないが、私は、この「submissive」という言葉ほど今の日本の抱える問題を的確に表した言葉はないと感じている。

「too submissive」の意味

 「submissive」という言葉は日本語では「服従的」や「従順」と訳されることが多いが、英語の辞書で引くと、「always willing to obey someone and never disagreeing with them, even if they are unkind to you」(『ロングマン現代英英辞典』より)などと出てくる。直訳すると、「たとえその人(達)が自分に冷たくても、常に従い決して逆らうことのない状態」といった意味となり、かなり強く「従順」な状態を指している。

 これを踏まえて、カズ・ヒロさんの言葉を訳すと、以下のようになるだろうか。

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「残念ながら私は日本を離れアメリカ人となっている。周りに合わせ従順であることを強要する日本の文化の中で夢を叶えるのは難しく、そんな文化の中で疲弊してしまった。だからこそ私はいまアメリカに住んでいる」
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 「got tired」という部分も私の拙い英語力では訳すのが難しく、「うんざり」や「嫌気がさす」といった表現の方が近いかなとも思うが、いずれにしても、カズ・ヒロさんは「日本の文化が嫌になって」という日本の文化全体を否定したような言葉は使っておらず、自身の信念に対して日本の「submissive」な部分が合わなかったと丁寧に説明している。

 この「submissive」という言葉を聞いて、いまの日本には確かにそういう傾向があると感じる人は多いのではないだろうか。実際、海外で生活しているとそれを理由に距離を置くために日本を離れていると話す日本人の声を聞く機会も多い。

「ちゃんと」に縛られる日本の研究者たち

 私は研究者として日本で数年キャリアを積んだ後、8年程前にアメリカに渡り海外(欧米)でキャリアを築いているが、私自身が研究者として海外にとどまる主な理由の一つもまた日本の「submissive」な部分への違和感にある。

 まず、私が違和感を覚える日本の研究業界における代表的な「submissive」な要素の一つが、「同調圧力」である。

 例えば、日本の研究業界(自然科学)では、「何をやるか」よりも「ちゃんとしているか」への意識が強く、この点を皆が牽制し合うような空気がある。会議等での研究発表の際にも、研究内容についてではなく発表に出てきた知識を本人が正しく理解しているかを確認するような質問がなされることが多い。

 もちろん仕事をする上で「ちゃんとしている」ことは大事である。しかし、「ちゃんとしている」とはどのような状態を指すのか、その解釈は個々によって違っていい。私が窮屈に感じているのは、日本では、「ちゃんとしている人とはこうあるべき」と画一的な理想像が押し付けられてしまう点だ。そしてそんな画一的な「ちゃんと」に縛られ、いかに有意義なアウトプットを出すかといった核心部分がおざなりにされる傾向にある。

「上下関係」における不必要な抑圧

 また、日本の「submissive」な文化は「上下関係」においても不必要な抑圧を生んでいる。

 経験を積んだ人が自身の経験を若い世代に伝えることはもちろん大切である。しかし日本ではこれを「経験や実績を積んだ人には従わなければならない」と解釈してしまう場合がある。

 こういったいわゆる権威主義は、業界全体を古い価値観に縛ってしまう危険がある。研究業界で言えば、例えば、研究費申請などの審査において、申請内容よりも申請者の役職や実績が重視される傾向があり、分野を切り開くような新しい研究が生まれる機会が奪われてしまっている。

 このような権威に従う「submissive」な傾向は、研究業界に限った話ではなく、様々な業界においても聞かれる。

 私たち家族は現在オーストリアに住んでいるのだが、先日、こちらで活躍する日本人のピアノ技師に「こちらに来たのは音楽に関してオーストリアのレベルが高いからですか?」と聞いたところ、「それもあるけど、師弟関係だったり上下意識が強すぎる日本が嫌で」との答えが返ってきた。

 このように「submissive」な文化が行き過ぎると、古い価値観からの脱却が難しくなるばかりでなく、その抑圧から逃れるために日本を離れる決断をする人が増えることにも繋がる。

 成功しないと物を言えない?

 関連して、「ウーマン村本大輔アメリカ進出を宣言 日本のお笑いに「限界」を感じた理由」(ハフポスト)という記事に興味深いことが書かれていた。

 記事によると、お笑い芸人として活動している村本さんはいま、アメリカに渡りスタンドアップコメディの世界に挑戦しようとしているという。その背景にある考えとして村本さんは、次のように述べている。

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「どうもこの国のお笑いは1本すぎる感じがして。多種多様じゃない感じがする」

「ちょっと違うことをやると、いろんな名前を付けられます。『あれはお笑いじゃない』とか、『あれは活動家だ』とか」

「こういうことを言うと、『そんなに日本が嫌いだったら…』という発想になると思うんですけど、そうじゃなくて。『違いは面白い』って言ってるんですよ」
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 冒頭で紹介したカズ・ヒロさんも、国籍を変えることについて、過去のインタビューで以下のように述べている。

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「日本の教育と社会が、古い考えをなくならせないようになっているんですよね。それに、日本人は集団意識が強いじゃないですか。その中で当てはまるように生きていっているので、古い考えにコントロールされていて、それを取り外せないんですよ。歳を取った人の頑固な考えとか、全部引き継いでいて、そこを完全に変えないと、どんどんダメになってしまう」(猿渡由紀氏によるヤフーニュースの記事より)
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 このような言葉を見ると、日本では結局どの業界も「too submissive」な状態にあり、自分らしくあろうとする人を抑圧してしまう構造になっているように思われてならない。

 またこれら記事に関してもう1つ残念なのが、カズ・ヒロさんの言葉に対しては「成功している人の言葉は重みがある」と受け入れる声が多いのに対し、村本さんの言葉には「成功してから言え」といった声が少なくない点だ。この違いには、成功者など社会的に権威のある人でないと物を言うべきでない、というまさに「submissive」な特徴が表れてしまっている。

「submissive」になる必要なんてない

 誤解してはいけないのが、「submissive」なことによって起こる問題は、一部の才能のある人、専門職や1つの道を極める人など、特定の層に限った話ではないということだ。

 日本では、「社会」は国や政府など、“何か上から与えられたもの”であるという意識が強いように思う。社会はすでにそこにあるもので、自分たちが変えられるものだと思っていない人が少なくないのではないだろうか。実際、選挙の投票率の低さやデモの少なさにもそれが表れている。

 一方、欧米に住んでいて感じるのは、「社会」は「個人」が主導している、という考え方をもっている人が多いことだ。だから日本と比べて選挙の投票率も高く、デモやストも頻繁に起こる。市民革命の歴史がそうさせているのかはわからないが、「社会」と「個人」の距離が日本に比べて近いのだ。

 本来、民主主義社会においては、「社会」はそれを構成する「個々人の分布」を踏まえて変化していくものだ。なので、個々がその特徴を消して社会に合わせようとしてしまうと、本来の分布と違う「歪な社会」になってしまう。

 私は今の日本が抱える閉塞感の根本はこの部分にあるように感じている。本来の自分を変えてまで「submissive」になる必要など誰にもない。社会のどこに自分が分布していようが、誰一人として同じ位置にはおらず、それが「個性」である。誰もが本来の自分として生きやすい社会――そんな社会を私たちは目指すべきではないだろうか。

Good try!

アメリミシガン州にて)

前回の「いったもん勝ち」と似た話ですが、アメリカではどうやらtryすることそのものが重要なようです。

印象的だったのはクレジットカードの審査。コストコのクレジットカードを申し込んだのですが、アメリカの駐在日数が短くクレジットポイント(クレジットカードを作るために必要な信用度を数値化したもの)が不足しており、審査に不合格でした。私としては想定内だったのですが、コストコの店員さんにその旨伝えたところ、「電話してなぜ審査に通らなかったのか聞きなさい!」と。え・・・?日本ではお国や銀行様がダメといったらダメで、その理由を聞くなんて考えもしませんでした。ましてやそこに交渉の余地なんてないですよね・・・?

でも「とにかく電話しろ、try it!」の一点張りなのです。

 

電話しました。

結果、「クレジットポイントが不足しているためカードは作れません」・・・だからいったじゃん!ダメだと思ってたよ!

 

と疲弊している私の横で店員さんは満足そうです。「残念だったわね、でも少なくともトライはしたからグッジョブ!(I am sorry about that, but at least you've tried! Good try!)」

私からするとどうせダメだと思っているのに電話して、時間も労力も無駄遣いすることに意味を感じない、それどころか「無駄」とすら感じるのですが、トライすることに価値があると心底思っているようです。もっというと、トライしないなんて理解できない!という雰囲気。

これは、一度断られても交渉すればカードを作れることがあるってことなのか?いやいや、そんな適当な審査あるか?でもデルタ航空のケースから考えると「いったもん勝ち」ということもあるのか?と、結局謎が深まる体験でした…

いったもん勝ち?!

アメリミシガン州にて)

実は昨年利用したデルタ航空で椅子が壊れており、リクライニングできませんでした。満席で他の席に移ることもできず、苦痛な時間を過ごしました。私にとって椅子を倒して休めないことは体調の大幅な悪化につながり、その後1ヶ月以上寝たきりとなってしまいました。

 

機内で補償の交渉をしても航空券代の3%程度のマイレージ付与しかできないといわれ、リクライニングできない椅子との差額程度の補償がないと納得できない私は帰国後カスタマーセンターに連絡。一度は「マイレージ付与しかできません」といわれましたがなぜかその後補償内容がアップ(航空券代の10%程度の現金返金)されていました。ここで私はその返金額の算定根拠を尋ねたところ(その金額に不満と伝えたわけではありません)、返金額が更に30%にまで上がりました。

驚きました。

「これじゃ足りない」と文句を伝えたわけでもないのに、「じゃあこの金額でどうだ」って上げてくれるの?日本だったら「規定で決まっておりますので」といわれそうなケースです。なぜ上げてくれるのか理由の記載も、金額算定の根拠も書いていないですし、いったもん勝ちってことなのだろうか…と、ありがたくも若干悶々としました。

 

アメリカ文化に少しなじみが出てきた今になって思うことは、「決して感情的にならず、冷静に、でも『私は決してひかないわよ』という態度がアメリカでの交渉には必要」ということが分かってきました。

その時はそこまで考えていたわけではないですが、感情的にはなっていませんでしたし(感情的になれるほどの英語力がありません…)、あまりのしんどさ、理不尽さに「納得できん」というのは前面に出ていた気がします。デルタ航空に対しては、自分の車椅子を壊されていて移動先で使用できなくなっていたり、空港内の車椅子補助を頼んだのに用意されていなかったりで辟易とする気持ちが積もり積もっていたこともあります。

日本では空気を読んで「そろそろ引いた方がいいだろうか」と思ってしまいそうなところで踏ん張ってメールを送り続けましたし、その辺りのことが功を奏したのかもしれません。

「いったもん勝ち」というよりも、「いわれた内容がリーズナブルなら従う」ということなのかもしれません。

子供の頃から自分の意見を相手に伝える訓練を受けている文化らしいなと思います。勉強になる経験でした。

情報の整理

私は物心ついた頃から「片付け」が好きですが、それは物理的な物の収納に限らず、「情報をどう整理するのがいいのか」もずっと考えています。

 

大学受験勉強時代も、学んだ情報(知識)をどのように整理するのがいいのか、そればかり考えていました。どうノートをとるのかに始まり、ノートやテキスト、先生によってはプリントを使うのでそれらの内容をどのように整理すればしっかり頭の中に入るのか、そしてテストの時に効率よく間違いなく取り出せるのか、それが私にとっては一大事だったのです。本当は全て一元化できればいいのですが、そうはいかないんですよね。例えばノートがメインの先生の場合、もらったプリントをノートに挟んだり、テキストの中で重要なグラフをノートに写したりして「ノート1冊」に集約できることもあるけれど、なかなかそうはいかない。プリントの枚数が多くなってしまったり、グラフをノートに写すのも簡単ではなかったり。あるいはテキストやプリントがメインの授業の場合はそれらを主体にして他の情報はそこに書き込むことにしてみる。しかし、書き込む内容が多いとスペースが足りず結局ノートが必要になったりする、などなど。

結局はノートやテキスト、プリントのリンク(相互参照)をしっかりとして、漏れのないことと順序通りにすることを徹底して受験は乗り切りましたが、今でも大きな課題です。

 

たとえば今英語の勉強をしていますが、その情報を授業ごとに分けるのか、ジャンルごとに分けるのか、メディアごとに分けるのか、などなど・・・迷います。

授業ごとにわけるのが最も簡単ではありますが、でも「新しい単語」「発音」「表現」などのジャンルでまとめないと、英語の上達に必要な情報の整理が足りない気がしてしまうのです。発音なら発音で、あらゆる授業の発音に関する知識をまとめて復習したいのです。かといって授業の内容を全てジャンルごとに書き直すのは情報を二重に残すことになって労力の無駄でもありますし・・・また、上に書いたようにノート、テキスト、プリントに加え、今の時代は携帯や動画、MP3などの音源などのデジタルメディアも多いです。それらをどうするのが一番効率よく、無駄なく、美しく整理されて頭に残るのか・・・迷いはつきません。「携帯」ひとつとっても、写真で残すのかアプリを使うのかスキャンするのか、手段が果てしなく多いのです。

人によっては全てをデジタル化したら良い(ノートもテキストもプリントもスキャンして取り込むなど)という人もいますが、私はアナログの方が記憶に残るのです。「あの分厚いテキストのこのあたりに書いてあった図」とか「インクが切れそうになっている赤ペンでメモした話」とか。そんな自分にとって最もよい方法を見つけるのに試行錯誤しています。

 

勉強や仕事の前にまずスケジュールを立てることTODOリストの棚卸に時間をかけること同様、この情報の整理をどうするかにも時間を費やしています。「そんなことに時間使うならさっさと勉強しろ」と自分でも思って情けなく感じていた時代も長かったのですが、これらが定まるとその後は一気にスピードアップできますし、整理された情報は記憶として定着し、且つ取り出しやすいので、長い目で見ると重要なことではないかと最近は思っています。

 

 

アメリカ人の興味と生きる意味

アメリミシガン州にて)

アメリカに来て驚いたことは、「ここは本当に先進国?」ということです。アメリカ人の気分を害しそうで心配ではありますが・・・

 

プロダクトも生活も、「上質」じゃないんですよね・・・私がいるところがアメリカ全体を表してはいないのでしょうが、でも実はミシガン州アナーバーは「全米で住みたい都市No1」の街なのです。それでこのレベル?と思ってしまいます。

サービスが日本と比べるとお粗末というのはお国柄として(州内の隣の市への郵便が1週間かかりました)、製品も食事も2,30年前から進化していない感じがするのです。

 

たとえば食洗器。数十年前に日本にやってきた時、日本では感動が生まれました。「何、この便利なアイテムは!」「さすがアメリカ!」という感じで。アメリカで現在普及している食洗器は、その頃と何ら変わらないのです。一方でアメリカから食洗器なるものを取り入れた日本ではその後、「いかに綺麗に汚れを落とすか」「いかに少ない水と電気で綺麗にするか」「いかに省スペース化できるか」などなど、各メーカーがしのぎを削りました。今となっては日本の食洗器の方が数倍性能がいいはずです。

 

これは食洗器に限った話ではなく、プロダクト全般にいえます。

 

先日乗ったリフトの運転手さん(アメリカ人)が、「American people are totally lazy.」といっていました。仕事はしないし遊んでばかりだし節制しないで太る一方だし、と。その方の車は韓国のヒュンダイ製でしたが、以前は韓国製の車は「安物」とみなされていたけれど、今はアメリカ車よりよく走るし、燃費はいいし、故障しないし、質の面で完全に抜かされていると力説。日本製にも当然抜かされているといっていました。

食事も、随分前に日本に上陸したスニッカーズやハーシーズが、アメリカでは今でもスーパーの棚の大部分を占めています。「おなかが空いたらスニッカーズ♬」の歌で一世を風靡してからン十年、今となってはスニッカーズ以上においしいものがスニッカーズより安い値段で24時間買える日本、すごいです。しかもどんどんと新製品が出てくるという。

 

アメリカ人の給料は平均して日本人よりいいはずなのですが、いったい何に興味があるのだろうかというのが最近の私の興味です。「モノ」にもあまり興味なさそう、「衣」服も失礼ながらそんなにこだわりなさそう(ぼろぼろ&ペラペラを着ている人多数)、「食」事も数十年前から特に変わらず、「住」宅の壁も床も薄くて隣の家の音が響く・・・

「何に興味があるんだろう」と書いてしまうと失礼に響いて心配ですが、決してバカにしているとかではなく、純粋に興味があるのです。生きている意味がしばしば分からなくなり、生きていることにすぐ虚しさを感じてしまう私にとって、何か生きるヒントになることがあるのではないかと思ったりもするのです。どうやって調べたらいいのかなぁ・・・

 

(ちなみにアメリカ人が最も興味がある&お金を使う対象として、「旅・バカンス」が今のところの候補です。)

携帯のシャッター音と盗撮

アメリミシガン州にて)

アメリカで生活をしていて居心地が悪いことのひとつに、スマホカメラのシャッター音があります。私はiPhoneを使用していますが、日本で購入したものなのでシャッター音が鳴ります。このシャッター音、鳴る仕様の国の方が圧倒的に少ないようで、2020年1月時点では日本と韓国のみだとか(appleからの正式な発表はないようなので間違っていたら申し訳ありません)。

日本でシャッター音が鳴るのは迷惑防止条例によるもので、たとえば電車内での盗撮行為の予防のため。実際痴漢の多い電車で通学していた身としては、シャッター音は盗撮防止に一役買うだろうなと思います。

しかしアメリカでこのシャッター音が鳴ると…みなさんかなりの確率でギョッとされます。基本的に他人に(いい意味で)無関心なアメリカ社会ですが、たしかにシャッター音が鳴る文化にいない人たちの耳に突然この音が響くと驚かれるのも無理はないですよね。

私は病院で問診票や書類の写真を記録のために撮ることが多いのですが、この音で周りの方々を驚かせてしまうかと思うと、毎度躊躇してしまいます。

 

そもそもアメリカには盗撮や痴漢という文化が少ないのでしょうか。夏の間のボディラインに沿った服や胸の谷間ががっつり見えている服などは、日本では着ている方が責められてしまいそうです。アメリカではもちろんそんなことはなく、「お堅い」職業の方も着ています(政府高官の人のスピーチを見たことがある方も多いかと)。これは女性の「好きな服を着る自由」が当たり前に優先されている証で居心地がいいです。そもそも「体の露出」と痴漢や盗撮が紐ついていない、つまり体の露出イコール性的スイッチとならない文化なのかもしれません。

 

考えてみるとトイレも、アメリカでは扉の下が膝ギリギリくらいまで空いていますし、扉もきっちり締まらず1,2㎝の隙間が空いています。はっきりいって…見えます!最初は居心地が悪かったのですが、誰も覗かないし、中に人がいるか分かって便利!ということらしいです…この文化ではトイレの盗撮なんてありえないのかしら…この文化に慣れた人からすると、日本の公衆トイレで扉がぴっちり閉まるだけでなくその上と天井の隙間に金網やネットが張り巡らされている状態は、逆に異様に映るのかもしれません。

痴漢も盗撮も、「隠されるから見たくなる」という心理も関係しているのかも…?…

などなど考えると止まらず、本当はもっときっちり研究したいです。デリケートな話なので「ちょっと雑談」で聞けるものでもありませんし。研究のタイミグを探ります。

病院の待ち時間

アメリミシガン州にて)

ミシガン大学医学部系列のfamily medecine(かかりつけ医)で鍼治療を受けています。

ある日11時過ぎの予約で治療を受けていると先生が妙にお疲れの様子。理由を尋ねると「今日はとても忙しい朝で疲れたんだ」とおっしゃるのです。「患者さんが12人もいるんだよ、午前中の4時間で!」と。ん?4時間で12人って1時間で3人…日本の感覚では「超ゆっくりペース」の診察ではないですか!?午前中に12人も予約が入っていることはほとんどなく、こんなペースで仕事をしていたら疲れてしかたないというのです。

日本の病院ではもっと予約多いですといってみたところ、「そのことは知ってるけど、それでどうやってドクターは回してるんだ?」とのこと。ちゃんと回せていないから待ち時間は長くなり、診察時間は短くなります。先生も患者も疲弊、不満のみが募ります。「僕はそういうのが嫌なんだ」。

 

日本で通っていた東京女子医科大学病院の頭痛外来では1時間に3,40人もの予約を入れていました。4,5時間待たされることもしょっちゅうで、1人あたりの診察時間は数分。先生も疲弊していて患者の話はろくに聞かず、適当に薬を処方されている気分でした。(この病院の場合は、診察人数だけではなくあらゆる仕組みやシステムが整っておらず、働く方々への負荷が多くなり、彼らがストレスを抱え、患者対応も悪くなる、という悪循環にはまっているように見受けられましたが…)

「多くの人を診てあげよう」という気持ちの表れなのかもしれませんが、患者としての満足度はアメリカの方が断然上です。待ち時間はほとんどなく、じっくり話を聞いてもらえるこの仕組み、どうすれば日本の病院もこのようになるのでしょうか。その根本的なところは今は分かりませんが、こちらの仕組みを日本の病院にも取り入れて改善していくような仕事をしたいです。それが長年闘病してきた私にできるかもしれない数少ないことである気がします。

自己責任と人との輪

アメリミシガン州にて)

前回自己責任について書きましたが、突然頭に浮かんだ歌詞があります。

「もじもじ、しないで、恥ずかしがり屋、

 どきどき、一人じゃ、できないものさー

 わーいわーい、みんながー、集まるーだけでー、

 うきうき、始まるー、楽しいリズム―」

昔々教育テレビで放送されていた「歌って・ゴー」という子供向け番組のテーマ曲なのですが、アメリカの It's up to you. と真逆のコンセプトだなと感じます。

アメリカでは幼少期より、自分で考え、それを人に説明し、自分で決断することが求められます。もちろん幼少期に全ての決断を求められるわけではありませんが、少なくとも「自分で考えて決断することは良いことであり、大人になるにつれてそうなっていくことが『理想』であり『大人としてあるべき姿』である」という価値観が根底にあります。

一方日本では、「周りの人の気持ちを慮れる人になること」「周りの人と協力してやっていけること」などがより重視されているように感じます。「歌って・ゴー」のテーマ曲のように、物心つく前からこういった歌(ばかり)を耳にしていたら、そういう価値観に育つのは当然だろうと思います。

批判するつもりはなく、教育の影響って大きいなと思うわけです。本人無自覚のうちに、更に周りの大人も明確に「こういった大人になって欲しいからこの曲を聴かせよう」と思っているわけでもない環境下で子供の中で価値観が育っていく…それってとても強烈なことだと思うのです。いい意味でも悪い意味でも。

アメリカの子供向け番組では「自分で決められる大人になろう~」という歌が歌われているのでしょうか。気になるところです。

 

個人的には、「自分のことは自分で決定できること」も「周りの人の気持ちを想像できて、人との輪も保てること」も、両方大切だと思っています。できることなら自分の頭で考え、自分で決断し、その決断に責任を持つ人間、且つ、周りの人の気持ちも慮れる人間になりたいです。ハードルが高いですけれど・・・

 

自己責任

アメリミシガン州にて)

想像はしていましたが、アメリカでは「自己責任」の考えが徹底していると感じます。徹底というよりも、人々の価値観の根底に横たわっているイメージでしょうか。「徹底させなきゃ」と意識すらしていないんだと思います。

会話をしていてもしばしば It's up to you. といわれます。「あなたが決めて」と訳してしまうと「決められないからあなたが決めて」という日本的なニュアンスを帯びてしまいますが大きく異なります。「自分で決めなさい、そしてその結果の責任は自分で負いなさい」ということなんですよね。

 

あらゆるレストランで食べ残したものを持ち帰ることができます。いわゆるドギーバッグというものですが「Can I have a box?」でOKです。一度にたくさん食べることができない私にとっては大変ありがたいシステムです。日本でもメジャーになったらいいのにと心から思いますが、日本では「衛生上の問題があって」と断られます。それって、持ち帰って食中毒にでもなった場合にお店が責任を負えない(負いたくない)からなんですよね。でもでも、持ち帰った食料でたとえ食中毒になってもお店のせいになんてしないから!と思ってしまいます。アメリカでは「持ち帰る人の責任で持ち帰る」という考え・感覚が徹底していて、「何かあったらお店が責任を…」なんてことは全く考えもしないそうです。

 

日本の観光地では当たり前の「柵に持たれるな」「危険!」といった看板も皆無です。体を乗り出して崖から落ちたらそれは乗り出した人の責任ということ…厳しくもありますが、看板だらけで興ざめの日本の観光地と比べると景観を思いっきり満喫することができます。この意味で日本は過保護なのかもしれません。

理解力と想像力

人の痛みや辛さを理解するには、理解力と想像力の両方が必要だと感じます。

理解力は人の話を聞いたり読んだりした時に知識として頭で分かることを指しています。「こういうことはされると嫌な人が多い」と頭で分かっているのが理解力。大事なことです。

一方、「自分がされて嫌なことはするな」といいますがそこにとどまらず、「自分がされて嫌じゃなくても、人によっては嫌かもしれない」と想像すること、それが一層大切なのではないかと思うのです。それが想像力。

 

病気の辛さに関して述べると、ご自身が健康な人、病気知らずの人には分かってもらえないことが多いと感じます。「自分は気合いで病気にならない!」といって憚らない人もいます。でもそれって、病人からすると「気持ちが弱いから病気になったんだ」っていわれているのと同じことになるんです・・・それをいわれるととても辛いです。

 

ご自身が大病を患ったことがあったり、近しい人に病気の人がいる人などは分かって下さる傾向があります。ただ、同じ病気でも人それぞれ症状も感じ方も違うんですよね。なので同じ病気の人だからこそ傷つくことをいってしまうこともありえます。「自分も同じ病気したけどすぐ治った」とか。

そういう一言をいうまえに、想像力を働かせて欲しいのです。可能なら。

 

ごくたまにですが、ご自身が健康で身内にも病気の人がいない場合でも、私の病気のことや辛さを理解して下さる人もいます。その方々と話していると、(上から目線になってしまいますが)理解力だけでなく想像力をお持ちなんだなと思って大変ありがたく、嬉しくなり、涙が出てきます。

 

「分かってくれる」「分かってくれない」などと書いていますが、いい歳をしてそんなことを求めていることこそがそもそも「甘え」なのかもしれない。。

人に理解してもらうことを求めない方がいいという考え方もありますし。理解して欲しいと思っていると、分かってもらえなかった時に傷つきます。「他人のことなんてそんなに分からないものだ」とはなから思っている方が傷つかないというのは一理あると思います。

それは頭では分かっているのですが、私はどうしても人に期待してしまうのです・・・子供ですね・・・