筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群(ME/CFS)で辛い日々…でも社会復帰したい!

20年以上にわたり筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群と闘いながら考えたことを整理しています。時折ひとりごと…

自己責任とチャリティ精神の両立

アメリミシガン州にて)

アメリカは自己責任の国だと思っていました。実際そうだと思います。会話の中でもしばしば It's up to you.(あなた次第)といわれます。

しかし一方で、今回のコロナパンデミックが始まってすぐに様々なボランティア活動が始まりました。貧しい人たちに食事を届ける活動はかなり盛んです。たとえばデトロイト市でもニューヨーク市でも学校が閉鎖され給食が取れない子供たちのために、後には貧困により十分な食事が取れない大人に対しても1日3食の食事が提供されています。両市ともトップが民主党という理由もあるかもしれませんが、それを差し引いてもアメリカ全体にチャリティの精神が根付いています。持てる者が貧しい者に施しをするのは当たり前である、と。そこには、日本で耳にする「ずるい」という感情の入る余地はなさそうです。「持てる者」のプライドなのでしょう。プライドというのは「上から目線」と紙一重になりがちで難しいものではありますが、「自己責任」「自立」と「チャリティ」「ボランティア」の両立について、私なりの解を見つけたいです。

車いすへの目線

アメリミシガン州にて)

車いすに乗っている際の人からの目線について以前も書きました。日本ではじろりと見られ、でも目が合うとそらされます。こちらでは特にじろりと見られることもなく「普通の人」のように扱われる一方、目が合うとニコリとされたりHiといってもらえたりします。その「目が合うとニコリとする」「Hiという」という行為自体が車いすじゃない人同士でもする「普通」の行為なので、この場合も他の人たちに対するのと同様の行為をとってもらえたということになります。つまりいい意味で「特別扱い」されないと実感します。

 

一方、小さな子供がエレベーターで私のために開くボタンを一生懸命押し続けてくれたりします。かわいくて嬉しいです。

 

土地の広さが違うので車いすに対する物理的な受け入れ余地が違うという理由もあるとは思いますが、ハンディキャップを持っている人に対する人々の「気持ち」が違うように感じます。英語の先生に聞いたところ、アメリカではハンディキャップがある生徒も可能な限り同じクラスで授業を受けるのが基本姿勢だとのこと。それぞれの事情で一部個別のクラスになることももちろんありますが、ハンディキャップのある生徒が「普通に」学校内、クラス内に存在している環境で子供は育つそうです。ほぼ全ての人が、成長過程でハンディキャップのある人を身近に知っていることになるそうです。人は「知らない」存在に怯えるもの。「知っている」ことがもたらす影響は大きそうです。

 

更に、「〇〇ちゃんは算数が得意」「〇〇ちゃんは体操が苦手」と同じような意味合いで「〇〇ちゃんは車椅子に乗っている」と捉えるそうです。文字通り「個性のひとつ」ということですね。「健常者か障害者」という2つのカテゴリーで捉えられがちな日本とはかなり違うように思いますが、アメリカには「人はそれぞれ違うもの、むしろ人と違うことが素晴らしい」という価値観が根底にあることも関係ありそうです。日本では「みんな」VS「みんなと違う人」という視点が存在します。それは強みにもなりますが、個人的にはアメリカの文化が居心地良く感じます。

 

 

 

保存形態の多様化

私は片付けが好きですが、すきを通り越して苦しいこともあります。自分なりのルールが固まるとそれに従い片付けていくのが楽しみなのですが、そのルールを生み出す道のりが苦しいことも。

たとえば私の子供の頃は基本的にデータは紙ベースのみでした。よって紙ベースの収納方法だけ編み出していれば良かった。それでも、教科書に書き込んだメモ、自分のノート、先生からの配布プリントをどう整理し、リンクさせるのが良いのか、そればかり考えていました。その後メール形態での保存方法が加わり、更にパソコン上で保存するものも増えていきます。文書やPDFの形で、あるいはウェブサイトをお気に入りに登録する形で。それらを果たしてパソコン上だけで保存するのか、あるいはフロッピーディスク(古いですが)やCD、USBなどの形でも保存するのか。更に更に携帯電話も進化し、その中でメールの形態で保存するのか、お気に入り?メモ?写真?あるいは他のアプリ?加えてパソコン・携帯に関わらずスキャンすることもありますね。

保存方法が増えて便利になったのは百も承知ですが、これらあらゆる形態の保存方法を使い分けるためのルールを編み出すのが苦しいのです。私にとって理想的なルールは例外が少ないこと。そして効率良く探せること。

 

身近な例でいえばお料理のレシピ。昔からのものは紙ベースです。自分なりの工夫や量の調整を簡単に手書きで書き込めるので基本的にはこれが一番好き。しかし徐々にパソコンのお気に入り、携帯のお気に入りが増えてきました。動画レシピはこれがいいですね。それなら全てお気に入り登録できたらいいのに、中にはお気に入り登録ができないページや時間が経つと消えてしまいそうなページもあり、それらは印刷したりもしますね。紙が劣化しそうなものやお店に飾ってあるレシピの中にはカメラで写真を撮ったものも。レシピは本当は食材で整理をしたいのに、保存形態が多岐に渡りすぎてそれもできず、目下ストレスです。

同調圧力と選択的夫婦別姓

アメリミシガン州にて)

アメリカに来て初めてできたネイティブのお友達と公園で話しました。話題の中心はやはりコロナと人種差別に対するプロテスト。彼女はジャーナリスト志望であり、海外における報道、特にアメリカについて各国でどのように報道されているかにとても興味があるようでした。新聞を毎日読んでいることがこのような形で少しでも役に立つならそんなに嬉しいことはありません。

 

コロナ対策に関して日本では自粛が「義務」ではなく「要請」だったとの話をしました。それでも人々はある程度従ったと。義務でもなく罰則もないのにどうして人々は従うのか。彼女の第一声は「Because people in Japan respect the goverment?(日本人は政府を敬っているから?)」。驚きました。そんなこと全然考えていなかった…日本人は同調圧力も強いし周りの人にどう思われているかを過度に気にするので、「要請」でも周りの空気や目を気にして外出を控える傾向があるのだと説明しました。日本人代表として説明が正しくないと良くないなと思いつつ、大学での社会心理で文化差について学んだのであながち間違いではないでしょう。

 

また彼女には同棲中の彼氏がいることから結婚の話に。アメリカでは結婚時に夫婦別姓を選べるそうで、それどころか夫婦2人で全く新しい姓をクリエイトしてもいいそう!結婚をためらった大きな理由のひとつに姓の変更問題があった身としてはうらやましくてなりません。自分の旧姓がとりわけ気に入っていたというわけでもないのですが、どうして片方だけ(日本の場合はほぼほぼ女性側)が姓を変えないといけないのか。30年40年と付き合ってきた自分のアイデンティがなくなってしまう喪失感。不安。元々「生」に対してあやふやな感覚を持っている私なぞは、「生きているって何だ」とまで考えてしまいます。変更に伴う事務的、金銭的な負担が片方にだけ生じるのも納得がいきません。最も残念なのはそれを「当たり前」「仕方ない」とする空気が男性だけでなく女性にもあること。これはきっと、当分変わらないでしょうね…

 

旧姓で仕事をしている人が取締役や監査役等の役員に就任した場合、あるいは、役員が結婚により氏名を変更した場合は戸籍名を登録しないといけません。2015年より旧姓「併記」ができるようになりましたし、同様の動きはパスポートや運転免許証でも進んでいますが、あくまでも「本名」は結婚後の姓であり旧姓は「サブ」的な位置づけなのがどうしても受け入れられないのです、個人的には。日本でこの事実があまり表面化も問題化もしていないのは、 日本における女性の社会進出の遅れとも関係があるように思います。働く女性の割合は増えていますが、管理職や役職、政府高官に占める女性の割合は日本は諸外国の中で圧倒的に低いです(たとえば2018年世界の管理職に占める女性の割合は27.1%。日本は12%と主要7カ国(G7)で最下位。国際労働機関より)。女性の社会進出が遅れているから夫婦別姓の必要性を感じる人が少ないのか、あるいは夫婦別姓に賛成する人が少ない土壌が同時に女性の社会進出を阻む文化となっているのか、このあたりも社会心理の研究対象となりそうです。

 

Routine

私には多くのルーティンがあります。それこそ中学1年生の頃から毎日やることがいくつか決まっており、今となってはやらないと気持ちが悪いのです。

 

朝のルーティンは

新聞を読む(日本語、英語)

 調子が悪い時は5分読んで休憩して、という感じで1日がかりのこともありましたが世の中から取り残される不安が強いです。

ラジオ体操

 できない日も多く、また途中で倒れることもありました。ただ「ラジオ体操をどの程度できるか」というのがその日の体調のバロメーターのひとつになっています。

朝食を食べる

 小学生の頃から、朝食を食べないとたとえ遅刻しそうでも学校に行かせてもらえませんでした。朝食を食べないと体も頭も動きません。

 

症状としては朝が一番つらいので朝のルーティンをこなすのは大変辛いです。少しでも朝ましな状態で起きるためには前日の睡眠が大事なのですが、少しでも良い睡眠をとるために心がけていることもいくつかあります。

部屋の中を片付ける 作業途中の物も全てあるべき場所にしまう

 朝起きて部屋の中が散乱しているのが嫌なのです。

翌日するべきTO DOリストを書く

 書くことで「忘れていいんだ」という安心感が生まれ、目の前のこと(寝ることを含む)に集中できます。

電気の色を白から黄色に変える

パソコンや携帯を見る時はブルーライトカットグラスを使用する

お風呂に入ってパジャマに着替える 頭が働き過ぎている時はアロマオイルを入れる

冬は湯たんぽを入れる

 これらは全て交感神経をオフし副交感神経に切り替えるためのルーティンです。睡眠中は携帯をベッドから手が届かないところに置くようにもしています。目が覚めた時についメールなどをチェックしてしまい眠れなくなる経験からの反省です。

 

オンライン化と貧富の差

アメリミシガン州にて)

アメリカでは年収400万ドル以下の人の40%がコロナにより職を失ったそうです。

また大卒以上の人の63%が完全なテレワークに移行したのと対照的に、高卒以下の人でテレワークに移行したのは20%とのこと。

行政、医療、教育、民間企業全ての分野でオンライン化が日本より進んでいると思っていましたし実際進んでいるのでしょうが、同時に、貧富の差も日本とは比べ物にならない程大きいのだろうと考えさせられる記事です。

 

ミシガン州でもステイホームオーダー(外出禁止令)に反対する人たちのデモが続いており、賛成する人たちはそれに対して眉をひそめています。しかし外出禁止令によってテレワークに移行できる人や手当をもらえる人がいる一方で、今日明日の食費や家賃に即座に困窮する人が多いのも事実。単に「出かけられないのが辛い」という甘い理由ではなく、生きるか死ぬかの瀬戸際にいることによる抗議活動です。日本のように皆保険制度や生活保護制度が整っていないアメリカでは貧困層の更なる貧困化が問題になっていることもあり、「抗議している人たちはコロナを甘く見ているのではないか、何をを考えているんだ」と簡単に断じることができない、難しい問題です。

 

なお日本で問題になっている、感染者(特にその中でも「問題ある」行動をとったとみなされる感染者)を特定し、脅迫めいたネットへの書き込みすらなされているというニュースはアナーバーでは聞いたことがありません。新聞やニュースに日々触れている知人も聞いたことがないといいます。感染した人に対して距離を取りたがる心理は理解できるものの、問題行動を吊し上げる心理はいまいち理解できないようでした。それが文化差によるものなのか他の要因が大きいのか、気になります。

 

 

アウトプットと自己肯定感

闘病生活が長いですが、何かしらの勉強や努力は続けなくてはと思い続けています。英語のラジオを聴いたり新聞を読んだり。とてもしんどくて5分聴いては、あるいは読んでは、数時間ダウンするを繰り返し、1日経ってでできたことが「なんとか新聞を読んだだけ」という日もたくさんありましたが、それでも「何もできない自分のままいる恐れ」「社会から取り残される不安」が強いのです。そのことをほめてくれる人もいますが、いつまで経っても自己肯定感が生まれません。私の自己肯定感のなさの原因としては子供の頃のいじめや思春期に同級生から否定されたこと、そして病気などあると思いますが、どうしていつになってもほんの少しの自己肯定感をも得ることができないのでしょうか・・・病気が治るまでは自己否定感とともに生きるしかないのでしょうか・・・

そもそも病気が治れば、あるいは今よりもう少しだけでも自分の思うように動けたりする日が増えれば、私の自己肯定感は増幅するのでしょうか。

最近思うのは、勉強にしてもインプットなんですよね。しんどいながらもインプットはできる限り続けてきました。でもアウトプットを全くしていないのです。だから「私には〇〇ができる」と思えず、いつまで経っても自己肯定感が生まれないのではないか。対価を頂ける仕事の意義はそこにあるのではないかと思います。でも対価を頂ける仕事じゃなくてもいいんです。誰かの・何かの役に立ちたい。「ありがとう」といってもらえる経験をしたい。そのために、何か、できることを探して、少しずつでも歩み始めたいです。

アメリカでのクレーム処理

アメリミシガン州にて)

ご存知の方もいらっしゃるかと思いますがアメリカは返品大国です。食べかけの食料すら返品を受けてくれるCosco(コストコ)は最たるものですが、Cosco は利用するのに年会費が必要で、そこに返品コストが含まれているはずです。

 

しかし年会費を必要としないいわゆる普通の店舗でも、基本的に消耗品以外のほとんどのものの返品を受け付けてくれます。「ちょっと気に入らなかったので」などでもOK。日本では「何か問題がございましたでしょうか」などと聞いて下さるので申し訳ない気持ちになりますが、こちらでは「返品ね、はいはーい」って感じです(笑)

 

ネット通販も同じで、返品のハードルが低いです。こちらでもAmazon をしばしば利用していますが、基本的に届く物のクオリティが低い。。。プチプチなどの梱包材に入れずドサッと箱に入っていることも多く、傷がついていたり(フライパン)、中身が飛び散っていたり(茶葉)することはままあります。そのような時に「ま、いっか」と思えない私は必ず返品なり補償なりの交渉をするのですが、アメリカは日本と違い「金で解決」の確率が高い(笑)

 

数日前にフライパンとお鍋のセットを購入したのですが、3枚の蓋のうち2枚に凹みがありました。その旨伝えたところ、凹みの写真を送ってということもなく「返品するので送り返して」とのこと。フライパンと鍋あわせて4つを段ボールに入れて返送するのは大変なので(しかも今はコロナで郵便局に持って行くのも一苦労)蓋だけ新しいものと交換してもらえないか尋ねると、「それはできないから一部返金します」との返事でした。その「一部」というのは購入金額の約5分の1。フライパン2つ、鍋2つ、蓋3つのうち蓋2つの対価としては高額です。こちらとしてはありがたいのですが、このようなことがしばしば起こります。

日本では返品の際に配送業者の方が自宅まで取りに来てくれるほど配送網が発達していますよね。こちらではそこまで配送網が整備されていないことも大きな理由でしょうが、基本めんどくさいんだろうと推測しています。メールのやりとりして、何と何を返品するか決めて、返品の受領を確認して、新しい商品を送って、、、とやるのがきっと彼らはめんどくさい。多少高額だろうとお金で解決できるならその方が楽と考えている気配がムンムンします。

労務費が高いのでその作業にかける人件費より一部返金の方が安いという合理的・実務的な理由もあるのでしょうが、こちらに来て1年、アメリカ人のメンタリティの土台のひとつに「めんどくさいことはしたくない」というのが大いにありそうと思う今日この頃。アメリカ人自身の口から「We are lazy.」と聞いた回数も多いですし、「効率主義」も「面倒・無駄が嫌い」の裏返しと考えられますしね。

私は元々「丁寧」「細かい」といわれる人間でしたが「効率主義」の面も持ち合わせており、後者の部分にアメリカ文化は合っているのかもしれません。帰国時に「雑になったね」といわれないか一抹の不安は抱えつつ・・・

スケジュール作りが命

子供の頃からスケジュール作りが命です。

 

受験勉強に関しては、受験日から逆算した

・年単位のスケジュール

・月単位のスケジュール

・週単位のスケジュール

・毎日のスケジュール

の順番に落とし込んで作っていました。

たとえばある月の月末(1週間ほどを残した日曜日)に翌月のスケジュールを立てるのですが、毎日の勉強科目及び勉強時間を時間単位で決めるのです。8時から10時まで英語、10時5分から12時5分まで数学、昼食をとり13時から15時まで古文、15時5分から17時5分まで日本史、17時10分から19時10分まで再び英語、夕食を取り20時から21時30分は日によって異なる科目、21時30分以降はリラックスタイムといった風に。

 

受験が視野に入る前の中学1年生から高校1年生の間も(中高一貫校でした)、毎日やることを手帳に書いていました。「今日絶対やる科目」「今日できたらやる科目=今週中にはやる科目」「当分やらなくていい科目」に分けて、毎日帰りのホームルームの時間に書くのが楽しかったのを覚えています。これさえ書いておけば、あとは順番にこなしていけばいいだけなので精神的に落ち着くのです。

 

このあたりの癖は大人になった今でも変わりません。TO DOリストが「今年やること」「今月にやること」「今週やること」「今日やること」に分かれているのですね。

昔、「スケジュール作りに時間を費やしているならその分何か前に進めた方がいいのではないか」と落ち込んだこともありましたが、結局「やるべきこと」を先にプロットしておく方が私には向いているのですね。プロットすることによって「スケジュールに従って行動すれば期限までに終わる」イメージも持てますし、メモすることで安心し、他のことを忘れて目の前のやるべきことに集中することができるのです。(記憶力があまりないので書いておかないと忘れてしまうという理由もありますが…)

あとは単純に、TO DOリストを順番に消していく快感も大きいです。「終わった!」「終わった!」と消していくのはゲームみたいで楽しいですし、どんどん消していこう!というモチベーションが生まれるのでやるべきことをさっさと効率良く終わらせてあとはゆっくりと過ごす、いいリズムが生まれるように私は感じます。

コロナと政治・宗教

アメリミシガン州にて)

ミシガン州アメリカで人口が8位の州ですが、コロナウィルス感染者数では3位や4位を行ったり来たりしています。4月18日午後3時時点で感染者数は3万人を超え、死亡者数も2千人を超えています。

ミシガン州知事が実施した社会的距離政策は全米で最も厳しい水準で、通院や食料買い出し以外は自宅にとどまるよう指示されています。健康を維持するための散歩までは禁止されていませんが、2世帯以上の集まりも禁止です。

それほど厳しい措置でも感染者数が多い、と考えるか、あるいは感染者数が多いために厳しい措置が必要になったと考えるかについては正解がありませんが、このところ感じるのは、コロナに対する戦いが若干政治色を帯び始めたなということです。4月15日、数千人の共和党支持者が車で議会周辺に集結、民主党である知事の隔離を求めてデモを行いました。しかもトランプ大統領はこれらのデモを支持するようなコメントをTwitterに載せました。

私は共和党支持者でも民主党支持者でもありませんが、「ウィルスに対する知事の政策を批判する」というスタンスならフェアだと思うのです。実際、当初のデモの主張は「仕事がなくなると今日明日の家賃や食費に困るのに自宅待機命令なんて受け入れられない」というものでした。しかし徐々に、「民主党員である知事のいうことは聞けない」という姿勢が強くなってきているように感じます。

アナーバーのダウンタウン近辺は9割以上民主党支持者だということで、基本的には非トランプの意見しか耳にしませんし、今回の共和党員によるデモに関しても「そんなことを今やって感染が一層広がったらどうするんだ」という意見が多いです。しかしこれもまた、ミシガン州という一つの州のできごとではありながら「分断されたアメリカ」の縮図を見ているように感じます。

 

今回のコロナウィルスパンデミックでは病床や医療機器が不足しているということで緊急でない手術が延期されている地域も多いですが、「中絶」が「緊急でない手術」に含まれるか否かを巡っても共和党VS民主党の戦いが繰り広げられています。こちらは共和党VS民主党という政治色に加え、更に宗教色も加わり複雑なことになっています。元々アメリカでは政治と宗教は密接なかかわりがあるために当然の成り行きともいえます。

 

共和党員のデモにしろ中絶手術の問題にしろ、日本では「対ウィルスの戦い」が政治的対立や宗教的対立にそこまでは直結しないので、非常にアメリカ的だと感じました。おそらくアメリカに限らず、日本以外の多くの国では多かれ少なかれアメリカに近いことが起きるのだとは思います。日本人は政治に関心が少ないともいわれますし、宗教に関しても「なんとなく神様の存在は信じているけれどもまあそんなにこだわりはない…」という人も多いと思います(もちろん違う人もたくさんいらっしゃいます)が、宗教が自分の存在と切っても切れない関係にある人たちにとっては、どんな問題であってもすぐに政治や宗教と結びつき、その対立が表面化するのは当然なのかもしれません。私などは「今は政治や宗教はおいておいて、まずは対コロナで一致しましょうよ」と思ってしまいますが、それは私が政治や宗教に関して「譲れないもの」を持っていないからかもしれない、などと考えました。

 

人類が生きていくために生み出された政治や宗教によってむしろ人類が分断されるのは、世の常とはいえ皮肉で残念なことです。